春のうららの

自転車のスタンドが壊れた。まぁそれはしょうがないんだけど、ここで、自転車を立てる能力を失ったこれはスタンドと呼んでいいのだろうか、ただの鉄の棒ではなかろうか、というなんとなく哲学的っぽい問が浮かんだ。その問が頭から離れずに夜も眠れない。昨日は9時間しか寝られなかった。

 
でもこれは哲学的でもなんでもなくて、スタンドって名前が悪いのだろう。英語の動詞をそのまま名詞にしちゃったからこんな問題が起こる。たとえば「久保」って名前にしておけば、たとえ自転車が立てられなくなったとしても、それは「壊れた久保」と呼べたのに。
 
哲学的な問題はすべて言語の問題に帰着できる、とウィトゲンシュタインさんもおっしゃっている(と勝手に解釈している)ので、つまらないことを考えるのはやめておくのがいいのだろうと思う。